リード
夕方六時十二分。
炊飯器は空だった。洗濯機の終了音が鳴り、脱衣所ではお湯を張り終えた音も鳴った。
りくは床に座り、黄色いミニカーを両手で握っている。
航平から届いたメッセージは、短かった。
「ごめん。今日、少し遅くなる」
つむぎは、その一文を見たまま動けなくなった。
ごはん。お風呂。洗濯物。明日の保育園バッグ。寝かしつけ。
どれも小さな用事なのに、同時に目の前へ来ると、出口のない壁のように見えた。
これは、夕方の全部を上手に終える話ではありません。
終わらないものを残したまま、朝比奈家が夜を越える話です。
本文
1 空の炊飯器
冷蔵庫を開ける。
卵が二つ。半分残った豆腐。昨日ゆでたにんじん。冷凍庫には、ごはんが一膳分だけあった。
つむぎが冷凍ごはんを手に取ると、りくが台所まで追いかけてきた。
りく
おふろ、いや
つむぎ
まだお風呂じゃないよ。先にごはんにしよう
りくは首を振った。
りく
ごはんも、いや
泣き声が大きくなる。
レンジの中で、ごはんだけが回っている。洗濯機は、もう一度終了音を鳴らした。
つむぎは、冷蔵庫の扉を閉めた。
作れば食べない。食べなければ心配になる。お風呂を後にすれば、寝る時間が遅くなる。
頭の中で、まだ起きていない失敗まで順番に並び始めた。
つむぎ
もう、何からやればいいの
りくへ言ったつもりはなかった。
でも、りくは泣くのを一瞬止めて、つむぎを見た。
2 順番をやめる
つむぎはスマホを開いた。
航平へ「何時?」と打ち、消した。「早く帰って」と打ち、また消した。
代わりに、今の台所を写真に撮った。空の炊飯器、開いていない豆腐、レンジの中の一膳分のごはん。
送った言葉は一つだけだった。
つむぎ
今日は、ごはんとお風呂を両方は無理
返事を待たず、つむぎは冷凍ごはんを半分にした。
りくの皿には、ごはんと、昨日のにんじん。つむぎの皿には、残りのごはんと豆腐。
汁物は作らなかった。卵も使わなかった。
テーブルへ運ぶと、りくはにんじんを指で押した。
りく
きいろ、ぶーぶ
黄色いミニカーを皿の横へ置こうとする。
いつもなら、「ごはんのときはしまおう」と言うところだった。
つむぎは、ミニカーの下に小さな布を一枚敷いた。
つむぎ
今日は、そこに停めようか
りくは、ごはんを二口食べた。にんじんは食べなかった。
それで食卓を終えた。
3 お風呂に入らない夜
食器をシンクへ置くと、脱衣所のお湯が少し冷めていた。
りくはミニカーを握ったまま、ソファの後ろへ隠れた。
つむぎ
お風呂、入ろう
りく
いや!
つむぎの喉まで、大きな声が上がってきた。
入るだけなのに。もうお湯も張ったのに。あと少しなのに。
そのとき、スマホが震えた。
航平からだった。
航平
わかった。今日は体を拭くだけでいい。帰ったら食器と洗濯、俺がやる
つむぎは、画面を二度読んだ。
「大丈夫」「頑張って」ではなかった。
今日やめることと、航平が持つことが書いてあった。
つむぎは浴槽の栓を抜いた。流れていく音を聞きながら、濡らしたタオルを一枚だけ持って、リビングへ戻った。
つむぎ
今日は、お風呂なし。手と顔だけ拭こう
りく
おふろ、なし?
つむぎ
うん。なしの日
りくは少し考えてから、両手を出した。
4 帰ってきた航平
りくが眠ったあと、玄関の鍵が回った。
航平は上着を脱ぐ前に、ダイニングと脱衣所を見た。
シンクには食器。洗濯機の中には濡れたままの服。浴槽は空だった。
航平
今日は、これで終わりにできたんだね
つむぎは「全然できなかった」と言いそうになった。
でも、テーブルの端にある二枚の皿と、ソファで眠るりくを見た。
つむぎ
ごはんは出した。お風呂はやめた
航平
うん。りくも寝てる。今日は、それでよかったと思う
航平は洗濯機のふたを開けた。
つむぎは、すぐに手伝わなかった。椅子に座って、温かいお茶を入れた。
湯気の向こうで、洗濯物を干す音がする。
全部終わったから休めたのではない。
終わらないものを、二人で分けたから休めた。
5 明日の夕方
翌朝、冷蔵庫に小さな紙が貼られていた。
「遅い日:冷凍ごはん。お風呂は拭くだけでもよい。帰った人が洗濯と食器」
立派な家事分担表ではない。
また崩れる日もある。
それでも、昨日の夜を「できなかった日」で終わらせず、次の夕方に残せる順番へ変えた。
りくが紙を指で触った。
りく
なしのひ?
つむぎ
そう。無理な日は、なしにしていい日
つむぎは笑った。
昨夜の食卓は、整っていなかった。
でも朝比奈家には、「今日はこれでよかった」と言える選択が一つ増えていた。
解説で深める
この話で出てきた「夕飯を作れないほど余裕がない日」について、食卓を安全に終える選択肢と家族への渡し方を整理した記事はこちらです。
ひとりへ集中しやすい育児の負担を言葉から確認したい方はこちら。
朝比奈家の話は、記事の中でも続いています
48本の悩み記事には、それぞれ朝比奈家の小さな場面があります。








