朝比奈家のはじまり / 第5話 / ワンオペの夕方

第5話「お風呂とごはんと、泣きたい私」

ごはん、お風呂、寝かしつけが重なる夕方。ひとりで夜を回そうとしたつむぎが、できないことを残し、航平と明日の順番を決める物語。

朝比奈家は架空の家族です。登場人物は著者・監修者ではありません。

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リード

夕方六時十二分。

炊飯器は空だった。洗濯機の終了音が鳴り、脱衣所ではお湯を張り終えた音も鳴った。

りくは床に座り、黄色いミニカーを両手で握っている。

航平から届いたメッセージは、短かった。

「ごめん。今日、少し遅くなる」

つむぎは、その一文を見たまま動けなくなった。

ごはん。お風呂。洗濯物。明日の保育園バッグ。寝かしつけ。

どれも小さな用事なのに、同時に目の前へ来ると、出口のない壁のように見えた。

これは、夕方の全部を上手に終える話ではありません。

終わらないものを残したまま、朝比奈家が夜を越える話です。


本文

1 空の炊飯器

冷蔵庫を開ける。

卵が二つ。半分残った豆腐。昨日ゆでたにんじん。冷凍庫には、ごはんが一膳分だけあった。

つむぎが冷凍ごはんを手に取ると、りくが台所まで追いかけてきた。

りく

おふろ、いや

つむぎ

まだお風呂じゃないよ。先にごはんにしよう

りくは首を振った。

りく

ごはんも、いや

泣き声が大きくなる。

レンジの中で、ごはんだけが回っている。洗濯機は、もう一度終了音を鳴らした。

つむぎは、冷蔵庫の扉を閉めた。

作れば食べない。食べなければ心配になる。お風呂を後にすれば、寝る時間が遅くなる。

頭の中で、まだ起きていない失敗まで順番に並び始めた。

つむぎ

もう、何からやればいいの

りくへ言ったつもりはなかった。

でも、りくは泣くのを一瞬止めて、つむぎを見た。

2 順番をやめる

つむぎはスマホを開いた。

航平へ「何時?」と打ち、消した。「早く帰って」と打ち、また消した。

代わりに、今の台所を写真に撮った。空の炊飯器、開いていない豆腐、レンジの中の一膳分のごはん。

送った言葉は一つだけだった。

つむぎ

今日は、ごはんとお風呂を両方は無理

返事を待たず、つむぎは冷凍ごはんを半分にした。

りくの皿には、ごはんと、昨日のにんじん。つむぎの皿には、残りのごはんと豆腐。

汁物は作らなかった。卵も使わなかった。

テーブルへ運ぶと、りくはにんじんを指で押した。

りく

きいろ、ぶーぶ

黄色いミニカーを皿の横へ置こうとする。

いつもなら、「ごはんのときはしまおう」と言うところだった。

つむぎは、ミニカーの下に小さな布を一枚敷いた。

つむぎ

今日は、そこに停めようか

りくは、ごはんを二口食べた。にんじんは食べなかった。

それで食卓を終えた。

3 お風呂に入らない夜

食器をシンクへ置くと、脱衣所のお湯が少し冷めていた。

りくはミニカーを握ったまま、ソファの後ろへ隠れた。

つむぎ

お風呂、入ろう

りく

いや!

つむぎの喉まで、大きな声が上がってきた。

入るだけなのに。もうお湯も張ったのに。あと少しなのに。

そのとき、スマホが震えた。

航平からだった。

航平

わかった。今日は体を拭くだけでいい。帰ったら食器と洗濯、俺がやる

つむぎは、画面を二度読んだ。

「大丈夫」「頑張って」ではなかった。

今日やめることと、航平が持つことが書いてあった。

つむぎは浴槽の栓を抜いた。流れていく音を聞きながら、濡らしたタオルを一枚だけ持って、リビングへ戻った。

つむぎ

今日は、お風呂なし。手と顔だけ拭こう

りく

おふろ、なし?

つむぎ

うん。なしの日

りくは少し考えてから、両手を出した。

4 帰ってきた航平

りくが眠ったあと、玄関の鍵が回った。

航平は上着を脱ぐ前に、ダイニングと脱衣所を見た。

シンクには食器。洗濯機の中には濡れたままの服。浴槽は空だった。

航平

今日は、これで終わりにできたんだね

つむぎは「全然できなかった」と言いそうになった。

でも、テーブルの端にある二枚の皿と、ソファで眠るりくを見た。

つむぎ

ごはんは出した。お風呂はやめた

航平

うん。りくも寝てる。今日は、それでよかったと思う

航平は洗濯機のふたを開けた。

つむぎは、すぐに手伝わなかった。椅子に座って、温かいお茶を入れた。

湯気の向こうで、洗濯物を干す音がする。

全部終わったから休めたのではない。

終わらないものを、二人で分けたから休めた。

5 明日の夕方

翌朝、冷蔵庫に小さな紙が貼られていた。

「遅い日:冷凍ごはん。お風呂は拭くだけでもよい。帰った人が洗濯と食器」

立派な家事分担表ではない。

また崩れる日もある。

それでも、昨日の夜を「できなかった日」で終わらせず、次の夕方に残せる順番へ変えた。

りくが紙を指で触った。

りく

なしのひ?

つむぎ

そう。無理な日は、なしにしていい日

つむぎは笑った。

昨夜の食卓は、整っていなかった。

でも朝比奈家には、「今日はこれでよかった」と言える選択が一つ増えていた。


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