リード
午前3時、朝比奈家の寝室に、りくの泣き声が響いた。
つむぎは反射的に体を起こしながら、心の奥で「また私だけが起きている」と思ってしまう。
これは、夜泣きの正解を説明する話ではない。
でも、ひとりで抱える夜を、少しだけ変えるための朝比奈家の小さな一歩の話。
本文
scene 1:午前3時の泣き声
最初に聞こえたのは、夢の中の音だと思った。
けれど、次の瞬間、りくの泣き声は寝室の空気をまっすぐに震わせた。
りく
うわああああん!
つむぎは、目を開けるより先に体を起こしていた。
時計を見る。午前3時12分。
さっき寝たばかりなのに。
そう思ったけれど、声には出さなかった。
隣では、航平が深く眠っている。仕事が忙しい時期で、ここ数日は帰りも遅かった。明日も朝から会議があると言っていた。
起こしたら、かわいそう。
そう思った。
でも、胸の奥で別の声がした。
私だって、眠ってない。
つむぎはその声を飲み込むように、布団から抜け出した。
scene 2:抱っこしても、泣き止まない
つむぎ
よしよし、大丈夫だよ
りくを抱き上げると、小さな体は熱く、涙で頬がぬれていた。
おむつを見る。
背中をとんとんする。
少しだけミルクを飲ませてみる。
部屋をゆっくり歩く。
何度もやった手順を、つむぎは順番に試した。
でも、りくは泣き止まない。
つむぎ
何がイヤなの? ママ、わかんないよ……
小さくこぼれた言葉に、自分で驚いた。
責めたいわけじゃない。
わかってあげたいだけなのに。
わからないことが、いちばんつらかった。
scene 3:起きない航平
りくの泣き声が、また大きくなる。
つむぎは思わず、航平の方を見た。
航平は寝返りを打った。
でも、起きなかった。
つむぎは一瞬、言いようのない気持ちになった。
起きてほしい。
でも、起こしたくない。
助けてほしい。
でも、言わなくても気づいてほしい。
そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、りくを抱き直す。
つむぎ
大丈夫、大丈夫
りくに言っているのか、自分に言っているのか、もうわからなかった。
scene 4:朝のすれ違い
朝になると、りくは何事もなかったように積み木で遊んでいた。
つむぎはぼんやりした頭で、味噌汁を温めている。鍋から立つ湯気が、少しだけ現実感を戻してくれた。
航平がマグカップを持ちながら言う。
航平
昨日、りく泣いてた?
つむぎの手が止まった。
つむぎ
……うん。けっこう
航平
そっか。全然気づかなかった。ごめん
悪気のない声だった。
謝ってくれていることもわかる。
でも、その“気づかなかった”が、つむぎの胸に刺さった。
気づかないで眠れたんだ。
私は、気づかないふりなんてできなかったのに。
つむぎは「大丈夫」と言おうとして、言えなかった。
scene 5:検索した言葉
航平を送り出したあと、つむぎはスマホを開いた。
検索窓に、ゆっくり文字を打つ。
「夜泣き つらい」
出てきた記事の見出しを、ぼんやり眺める。
原因。対処法。いつまで。寝不足。限界。
どれも知りたい。
でも、読む気力がない。
その中の一文だけが、目に入った。
夜泣きは、ママやパパのせいとは限りません。
つむぎは、画面を見つめたまま動けなかった。
つむぎ
……私のせいじゃ、ないのかな
その言葉だけで、少しだけ息がしやすくなった。
scene 6:15分だけ
その夜。りくが寝たあと、つむぎはダイニングテーブルで航平に言った。
つむぎ
今日、もし夜中に泣いたら……最初の15分だけ、抱っこしてくれる?
航平は少し驚いた顔をした。
航平
もちろん。ごめん、今まで気づけてなかった
つむぎは、すぐに笑えなかった。
でも、うなずくことはできた。
つむぎ
全部じゃなくていい。15分だけでいいから
そう言えた自分に、つむぎは少しだけ驚いた。
scene 7:夜を越える
午前2時半。りくが泣いた。
今度は、航平が先に起きた。
ぎこちない抱っこ。
少しずれた子守歌。
りくは、やっぱり泣いている。
でも、つむぎは布団の中で目を閉じた。
泣き声は聞こえる。
心配も消えない。
それでも、ほんの少しだけ体を横にできた。
朝になって、航平が眠そうな顔で言った。
航平
夜泣きって、思ってたより……きついね
つむぎは、マグカップを両手で包みながら答えた。
つむぎ
うん。きついよ
それは責める言葉ではなく、ようやく届いた本音だった。
解説で深める
この話で出てきた「夜泣きのつらさ」について、原因の考え方や今日できる対処法を整理した記事はこちらです。
次回予告
次の朝比奈家では、つむぎが小さな器に込めた期待と、食べてもらえなかったおかゆの話です。





