リード
昼前のキッチンで、つむぎは小さな鍋を見つめていた。
白いおかゆ。
やわらかく煮たにんじん。
りく用の小さな器。
くまの絵がついたエプロン。
今日は食べてくれるかもしれない。
そう思って並べたものが、テーブルの上で少しずつ冷めていく。
これは、離乳食の正解を説明する話ではありません。
でも、「食べてくれない」ときに、自分の努力まで拒まれたように感じてしまう親の心を、少しだけほどくための朝比奈家の一日です。
本文
scene 1:小さな器に込めた期待
昼前のキッチンには、やわらかい光が入っていた。
つむぎは、小さな鍋の中をゆっくり混ぜていた。
白いおかゆに、やわらかく煮たにんじんを少しだけのせる。
つむぎ
今日は、食べてくれるかな
声に出すと、少しだけ期待が形になった気がした。
りく用の小さな器。
くまの絵がついたエプロン。
お気に入りのマグ。
食べこぼし用のタオル。
テーブルの上は、つむぎなりの“準備万端”だった。
昨日は、ほんの少しだけ口に入れた。
だから今日は、もう少し進むかもしれない。
そう思う自分がいる一方で、つむぎは小さく肩に力が入っているのもわかっていた。
「食べてほしい」
その願いは、いつの間にか少しだけ重たくなっていた。
scene 2:閉じた口
つむぎ
りく、あーん
つむぎがスプーンを近づける。
りくは、じっと見た。
スプーンの先のおかゆを見て、つむぎの顔を見て、それからまたスプーンを見た。
そして、口をきゅっと閉じた。
つむぎ
……あれ?
つむぎは笑顔を作る。
つむぎ
あーん。おいしいよ
りくは首を横に振った。
小さな手でスプーンを押し返す。
ぽとり。
おかゆが、テーブルに落ちた。
つむぎはすぐに拭いた。
怒るほどのことではない。
そんなのは、わかっている。
でも、胸の奥で何かが小さくしぼむ音がした。
scene 3:冷めていくおかゆ
つむぎ
昨日は少し食べたのに
つむぎは、こぼれたおかゆを拭きながらつぶやいた。
りくは椅子の上で体を反らせる。
エプロンを引っ張る。
スプーンを見るだけで、顔をそむける。
つむぎ
どうして……
その声は、りくに向けたものなのか、自分に向けたものなのか、つむぎにもわからなかった。
おかゆから、湯気が消えていく。
昨日より少し細かくした。
温度も見た。
時間も考えた。
眠くなる前にしたつもりだった。
それでも、りくの口は開かない。
食べないだけ。
ただ、それだけ。
でもつむぎには、今日の自分の準備や期待まで、全部横に置かれたように感じた。
scene 4:航平の何気ない一言
夕方、航平が帰ってきた。
りくは、ミニカーを走らせながら機嫌よく笑っている。
昼間の食卓が嘘みたいだった。
航平がカバンを置きながら聞く。
航平
今日、りく食べた?
つむぎは、少し間を置いて答えた。
つむぎ
ほとんど食べなかった
航平は、悪気なく言った。
航平
まあ、そのうち食べるんじゃない?
その一言は、たぶん間違っていない。
むしろ、正しいのかもしれない。
でも、つむぎには軽く聞こえた。
つむぎ
そのうちって、いつ?
声が少し震えた。
航平は驚いた顔をする。
航平
ごめん。そういうつもりじゃ……
つむぎ
私、毎日考えてるんだよ
つむぎは、目を伏せた。
つむぎ
何なら食べるかなって。どれくらいなら食べるかなって。今日こそって
航平は黙った。
りくのミニカーの音だけが、リビングに小さく響いた。
scene 5:スマホの中の正解探し
夜、りくが寝たあと。
つむぎはスマホを開き、離乳食を食べない理由や、なかなか進まないときの向き合い方を調べていた。
画面には、いろいろな工夫が並んでいる。
食材を変える。
固さを変える。
時間を変える。
手づかみを試す。
市販品を使う。
どれも大事そうで、どれもできていない気がした。
スクロールする指が止まる。
子どもの食欲や食べ方には個人差があります。
つむぎは、スマホを持つ手を少しだけゆるめた。
つむぎ
個人差……か
その言葉だけで不安が消えるわけではない。
でも、食べないことがすべて自分のせいではないのかもしれない。
そう思えただけで、少しだけ息がしやすくなった。
scene 6:明日は、ひと口だけ
翌日。
つむぎは、昨日より小さな器を出した。
おかゆは、ほんの少しだけ。
かぼちゃも、スプーンの先にのるくらい。
つむぎ
今日は、ひと口チャレンジにしよう
自分に言い聞かせるように、つむぎは言った。
航平が横からそっと聞く。
航平
俺、スプーン持ってみてもいい?
つむぎは少し迷った。
また食べなかったら、落ち込むかもしれない。
航平の前で、また気持ちが揺れるかもしれない。
でも、うなずいた。
航平がスプーンを持つ。
りくは、不思議そうにそれを見る。
口は、開かなかった。
でも、昨日みたいに泣かなかった。
顔もそむけなかった。
つむぎ
……今日は、ここまででいいか
つむぎが言うと、航平も静かにうなずいた。
scene 7:食べなかった日も、終わっていい
夕方。
りくは、おもちゃの車を走らせながら笑っていた。
つむぎは、空にならなかった器を洗う。
食べなかった。
今日も、思ったようには進まなかった。
それでも、りくは笑っている。
つむぎも、昨日より少しだけ息ができている。
航平が横に立って言った。
航平
明日、にんじんじゃなくて、かぼちゃ、もう一回試してみる?
つむぎは、少しだけ笑った。
つむぎ
うん。でも、少しだけね
冷めたおかゆの日は、失敗の日じゃない。
朝比奈家の食卓は、まだ練習の途中だった。
解説で深める
この話で出てきた「離乳食を食べない不安」について、焦らない進め方や今日できる工夫を整理した記事はこちらです。
離乳食という言葉の意味を短く確認したい方はこちら。
次回予告
次回、朝比奈家の朝は、靴下ひとつで止まります。
りくの「イヤ!」に、つむぎの余裕が少しずつ削られていく朝。
第3話「イヤ!の声に負けた朝」へ続きます。








