リード
冷めたおかゆを前に立ち尽くしたころから、季節が少し進んだ。
りくは、自分の気持ちを「イヤ!」で伝えるようになっていた。
朝は、いつも少しだけ急いでいる。
ごはんを食べてほしい。
着替えてほしい。
靴下を履いてほしい。
保育園に間に合ってほしい。
でも、りくの返事は、たったひとことだった。
りく
イヤ!
これは、イヤイヤ期の正しい対応を説明する話ではありません。
怒りたくないのに声が大きくなり、そのあとに言葉を失ってしまった、朝比奈家の朝の話です。
本文
scene 1:靴下ひとつで止まる朝
朝のリビング。
つむぎは、時計を見ながらりくの靴下を手に取った。
つむぎ
りく、靴下はこうね。はい、片足
りくは靴下をじっと見た。
それから、つむぎの顔を見た。
次の瞬間、靴下をぽいっと投げた。
りく
イヤ!
つむぎは一瞬、固まった。
笑って流せる日もある。
「そっか、イヤなんだね」と言える日もある。
でも今日は、洗い物も残っている。
自分の支度もまだ。
保育園の連絡帳も、最後の一行が空白のままだった。
つむぎ
じゃあ、こっちの靴下にする?
つむぎは別の靴下を出した。
りくは首をぶんぶん振った。
りく
イヤ!
朝の空気が、少しずつ固くなっていった。
scene 2:やさしく言っても進まない
つむぎは床に座って、りくと目線を合わせた。
つむぎ
じゃあ、りくが自分で履いてみる?
りくは靴下を持ったまま、じっと見ている。
少しやる気になったように見えた。
つむぎは、息を止めるように待った。
でも次の瞬間、りくは靴下をソファの下に押し込んだ。
りく
イヤああ!
その声に、つむぎの肩がぴくっと上がった。
つむぎ
……わかった。でも、出かける準備しないと
言葉はまだ落ち着いている。
でも胸の中には、熱いものが少しずつたまっていく。
時計の針が、やけに大きく見えた。
scene 3:つい大きくなった声
ごはんも半分残っている。
バッグの中身も確認していない。
航平は洗面所で支度をしている。
つむぎ
りく、もう履こう
つむぎは靴下を拾い上げた。
りくは床に寝転がって、足をばたばたさせる。
りく
イヤ!イヤ!
つむぎの中で、何かがぷつんと切れた。
つむぎ
りく、いい加減にして!
その瞬間、部屋がしんとした。
りくの目が大きくなる。
少し遅れて、口がゆがむ。
そして、わっと泣き出した。
つむぎは、自分の声が部屋に残っているような気がして、立ち尽くした。
scene 4:泣いているのは、どっちだろう
りくは床に座り込んで泣いている。
つむぎはその前で、どうしていいかわからなくなっていた。
つむぎは、りくの名前を呼ぼうとした。
でも、声が喉の奥で止まった。
怒りたかったわけじゃない。
怖がらせたかったわけでもない。
ただ、朝を回したかった。
ちゃんと間に合わせたかった。
連絡帳も、朝ごはんも、着替えも、全部、なんとかしたかった。
それだけなのに。
最後に残ったのは、泣いているりくと、自分を責める気持ちだった。
洗面所から出てきた航平が、リビングの空気に気づいて足を止める。
航平
……どうした?
つむぎは答えられなかった。
解説で深める
この話で出てきた「イヤイヤ期に怒ってしまうつらさ」について、気持ちの立て直し方や今日できる工夫を整理した記事はこちらです。
イヤイヤ期という言葉の意味を短く確認したい方はこちら。
次回予告
次回、つむぎは「怒鳴ってしまった後」の自分の気持ちと向き合います。
親子の関係は、怒ってしまったら終わりなのか。
それとも、そこから戻る道もあるのか。
第4話「ごめんねが言えた夕方」へ続きます。




